
気づけば、ずっと「何かをつくる」ことが好きでした。
外で鬼ごっこをするより、部屋の中で絵を描いたり、紙を切って工作をしたり、夢中で手を動かしていた子どもでした。近所の絵画教室にも通っていて、お絵描きや粘土細工に没頭していた記憶があります。
小学生になると、今度はマンガにハマりました。自分でマンガを描いて、それを束ねて“オリジナルの雑誌”にするんです。弟にも無理やり連載を書かせたりして(笑)、友達も巻き込んで、自分だけの世界をつくるのが本当に楽しかったです。
中学生になると、今度は写真に興味が移りました。まだフィルムカメラの時代だったので、現像も自分でやってみたくなって。クローゼットに現像液を持ち込んで、即席の暗室をつくり、真っ暗な中で手探りで写真を現像していました。あの酢酸のツンとくる匂いも、今となっては懐かしいです。
高校では音楽にのめり込みました。きっかけは知人からもらったギターです。最初は流行りの曲を弾いていたのですが、すぐに飽きて、自分で曲を作るようになりました。表現したいというより、「つくる」こと自体が目的だったんだと思います。バンドも組んで、学園祭で自作の曲を披露していました。思い返すとかなり恥ずかしいですが、当時は本気でやっていました。
高校の終わりごろからは、文章にも興味が出てきました。もともと読書は好きだったのですが、自分でも何か書いてみたいと思うようになったんです。
国語の先生に「君には文章の才能がある」と言われたのを真に受けて(笑)、小説ともエッセイともつかない文章を毎日書いていました。大学に入る頃には、「将来は物書きになれたらいいな」とぼんやり思っていました。
目次
Toggle「書くこと」を支えてくれた、ある先生のひと言
私は、いわゆる「豚もおだてりゃ木に登る」タイプです。うそでも褒められると、その気になってしまうんです。
そんな私にとって、大きなターニングポイントとなったのが、高校の国語表現の授業でした。1時間で600字の文章を書き、それを先生が講評するという授業。私の作文はよく取り上げられ、先生に褒めてもらいました。その先生、岩下先生は自分でも小説を書く人で、表現に対して真摯な視点を持っている方でした。
「君は書く才能があるよ」
あの一言がなかったら、私はコピーライターにはなっていなかったかもしれません。
バブル期の東京と、社会に出ること
大学生だった80年代後半の東京は、今とは全く別世界でした。バブルの手前で、街はキラキラしていて、何もかもが新しかった。六本木や麻布十番、代官山といった、それまであまり注目されなかったエリアが急に「おしゃれ」だと言われ始め、若者が集まるようになりました。カフェバー、ディスコ、日産シルビアや、ホンダ・プレリュードなど日本車への憧れ——未来は明るく、何が起きてもおかしくない、そんな空気が流れていました。
でも、そんな時代でも、私は「スーツを着て、定時に出社して、決まったことをやる人生はイヤだ」と思っていました。だから、広告業界に入りました。最初はチラシやポスターなど地味な仕事から始まりましたが、やがて新聞の全面広告やTVCMを任されるようになり、いくつか広告賞もいただきました。
コピーライター時代のきつかった日々
コピーライターというと、キャッチフレーズをささっと書いて楽な仕事に見えるかもしれません。でも、実際は真逆です。
キャッチコピー1本を決めるのに、若い頃は何百本も案を出しました。ボディコピーだって、何十回と書き直す。そもそも、コピーを書くのは仕事の「最後の仕上げ」であって、仕事の本質はアイデア出し。どんな切り口で、どんなビジュアルにどんな言葉を乗せるか。小さな紙にサムネールという形でまとめ、それを何十枚も何百枚もディレクターに提出します。全部ボツ、なんて日もザラでした。
まだ20代の頃、朝7時まで働いて、11時からまた仕事開始……という日々が続きました。でも、それでもやめようと思ったことはありませんでした。
海外移住を決断したときのこと
そんな中、外資系クライアントとの仕事が増えていく中で、「英語が話せたら、もっと面白いことができるのに」と感じるようになりました。いや、正確に言えば、私は新しい刺激が欲しかったんです。
そして、38歳のとき、ロサンゼルスの広告エージェンシーへの転職を決めました。そのとき、私はすでに結婚して7年ほど経っていて、東京にマンションも買って暮らしていました。もちろん、不安はありました。でも、それ以上に好奇心が勝っていました。
妻は、ほとんど何も言わずに一緒に来てくれました。きっと彼女なりにいろんな思いはあったと思います。それでも反対せずに、海外生活に付き合ってくれたことには、今でも心から感謝しています。
アメリカでの戸惑いと気づき
アメリカに来て最初に驚いたのは、「人との距離感」でした。日本では、初対面の人には礼儀をもって接するのが普通ですよね。それが相手を尊重する方法です。でも、アメリカでは逆で、「親しみをもって接する」ことが、尊重の表れなんです。たとえば、レストランで初めて会った人にも、笑顔でフレンドリーに話しかけてくる。まるで昔からの友達のように。最初はその“タメ口文化”に正直とまどいました。
そして、仕事でも大きなカルチャーショックがありました。日本では広告制作の現場はとても厳しくて、キャッチコピーをひとつ決めるのにも100〜200案、時には500案出すのが当たり前。私も何度もしごかれました。でも、アメリカではそういう「量」はあまり出さない。ひとり2〜3案くらいで、「あとはこれで通るでしょ」みたいな空気なんです。
なのに、みんな自分のアイデアに100%自信を持っている。そして、あまり努力していない(笑)。本を読んだり、映画を見たり、毎日なにかを書くというような積み重ねをしている人が少ないんです。だから私は思いました。「だったら、努力さえ本気でやれば勝てる」と。
若い人たちへ、伝えたいこと
今の日本で、若い人が「未来を描こう」とするのは、正直むずかしい時代かもしれません。経済は20年以上ほとんど成長しておらず、収入も上がらない。ITやAIなどの革新も、日本より海外の方が圧倒的に速い。気づけば、日本はジワジワと世界での存在感を落としていて、東南アジアやインドの台頭に追い抜かれる日も近いかもしれません。
でも、だからこそ、いま大切なのは「未来に描く夢」だと思います。明日が楽しみだと思えるからこそ、人は今日をがんばれる。ワクワクできる未来を持つことが、生きる原動力になると思うんです。
そして、その夢は「自分で動いてみる」ことで、見えてくることが多いです。世界はまだまだ広いし、いろんなチャンスがあちこちに転がっています。うまくいかなくてもいい。ジタバタしたっていい。何もしないよりずっといい。自分なりに、少しだけ勇気を出して動いてみてほしいな、と思います。
最後に
私は「人と違うことを書きたい」とずっと思ってきました。だから、「人と違う人生を生きよう」と努力してきました。
その結果が、今のこの人生です。きっと、ちょっとだけ変わった人生。でも、そのぶん、ちょっとだけ違うことが書けている気がします。
もしこのコラムが、あなたの何かのヒントになったなら、とても嬉しいです。そして、「この人生を生きた人にちょっと聞いてみたいことがあるな」と思ったら、ぜひコメントで教えてください。あなたの声が、きっとまた次のコラムの種になります。
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